学術の動向 7月号 p56-57 (2007)

ソフトマター物理学               
                      

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.ソフトマター物理の歴史
  
ソフトマター(soft matter)とは、ゴム、プラスチック、食品、化粧品など、我々の身近にある柔らかな物質のことである。これらの物質は、古くから我々の身近に存在し、生活に役立ってきた物質であるが(ゴムは、新大陸の原住民が、防水の用途に用いており、化粧品はクロマニヨン人が用いたと言われている)、ソフトマターという言葉が使われだしたのは、比較的最近のことである。
  
ソフトマターとは、現代の言葉で言えば、高分子、液晶分子、両親媒性分子、コロイド微粒子、など大きくて複雑な構成要素からなる物質群の総称である。これらの物質は、原子物理学に端を発する20世紀の物性物理学の中では、あまり研究されてこなかった物質である。それにはいくつかの理由がある。(1)構成要素が原子に比べてはるかに大きいソフトマターの研究には、原子の姿が見えない、(2)熱平衡を実現するのが難しく、再現性のある実験がしにくい、(3)構造が柔らかで壊れやすく、物性測定が難しい、など、ソフトマターは、物理学者が敬遠したくなる特性を持っている。もっとも、ソフトマターが、物理学の中で全く研究されてこなかったわけではない。高分子物理、液晶物理という分野は確かに存在していた。しかし、ソフトマターの研究者はそれに満足していなかった。
  
その理由は、物質に即したこれらの名称では、物理としての普遍性が表現されていないという点にあった。高分子物理というのは、高分子についてのみ成り立つ物理を研究するわけではない。高分子を通して、物理を研究するのであり、得られた知見は他の系についても成り立つはずである。同じ気分は、液晶やコロイドの研究者にもあった。これらの分野で得られた成果を整理して、物理学の一つの分野としてまとめなおして見たいという気分が、1980年台に醸成されてきた。
  
時代背景としては、1960年代から70年代にかけて、de Gennesを中心としたいくつかのグループによって、液晶、高分子、コロイドなどの系の研究が大きく進展したことがある。de Gennesは、これらの系は複雑のようにみえるが、ある見方をすれば、相転移理論やスケーリング理論など、物理の言葉を使って、きれいな解析ができることを示した。1980年代にはこれらの知見は、物理の一つの分野とする価値があると考えられるようになってきたのである。分野を表す言葉として、当初、複雑流体(complex fluids)という言葉が用いられたが、語感がわるいのと分かりにくさのため定着しなかった。1991年にde Gennesがノーベル賞の受賞講演タイトルとして“ソフトマター”を用いて以来、この言葉が定着するようになった。

2.ソフトマター物理の現在と未来

上述の歴史を持っているため、ソフトマター物理という言葉の中には、物理のなかでそれが敬遠されていた原因となる問題にあえて挑戦し、物理の領域を広げてゆこうという思いがこめられている。すなわち、(1)原子より大きな単位を構造に持つ系の物理(メソスコピック系の物理)(2)非常に長い緩和時間を持つ系の物理(スローダイナミクス系の物理)(3)柔らかで壊れやすい系の物理(非線形・非平衡系の物理)を作って行こうという思いである。現在では、この考えは、強相関系をはじめとし、物性物理の多くの分野で共通のものとなりつつあるので、ソフトマター特有のものではなくなっている。しかし、上記の問題意識をもつ物性物理学者にとって、ソフトマターが好個の研究対象であることは間違いない。
  ソフトマター物理の研究は応用と密接に関連している。ソフトマターを応用した製品は、日用品にたくさん見られるが、それだけでなく、集積回路の製造、 コピーや印刷など現在の電子情報技術においてもソフトマターは役に立っている。有機分素子、印刷による電子デバイス製造など、未来の技術においてもソフトマターの研究はますます重要となる。ソフトマターの最も大きな展開が期待されているのは、医療やバイオテクノロジー分野への応用である。我々の体はソフトマターであり、我々が食べるもの、身につけるものもソフトマターが多い。生体物質の機能を補完・代替するバイオマテリアルは、医療分野への応用が期待されている。

これらの応用を支えるサイエンスとして、ソフトマター物理が解き明かして行かなければならない問題は数多くある。ソフトマターと固体との界面は応用上非常に重要であるが、基礎的な研究はこれからである。また、ソフトマターの特性の一つである、多階層系の取り扱い(異なる階層をつなぐ理論、多階層をもつ系のシミュレーション法など)もチャレンジングな問題である。

ソフトマター物理は、新しい物理を生む題材を提供すると同時に、ナノ・バイオの応用を支える基礎科学となってゆくことが期待されている。